2024年2月 この範囲を時系列順で読む この範囲をファイルに出力する

きっと

すべては一時の気の迷いだと思うことにしました。私に関してはね。いいのいいの、そんなものだもの。

Diary

道のり(3)
”Why long face?"

自由と、友人を守ることの間で揺れ動き続けました。

あのあばら家を後にしてマンションに引っ越し、親友のおばあ様は私に泣いてすがりました。私は親友の従姉にうんざりしていたし、何より高校受験の時に体に無理のきかない人と成績の差がどんどん開いていくのを無視することはできませんでした。父の購入しようとしていたマンションはちょうど、学区の重ならない地域に位置し私の心配を少し削りました。

都市部から郊外へ。それは私の適応したことのない場所で、左手で箸を持つ私に「障碍者!」と呼ぶ人がいるほどの文化の差がありました。傷つくほどの繊細さを持たない私はそれを自分のキャラクター付けとして利用し、あらゆる人に名前を覚えさせました。ただし、あまり有用な人物が見つからず次第に興味を失いました。

高校受験を終わらせた私は、合格通知を手にある人物を訪れました。引っ越すまでの間、ほぼ毎日顔を合わせていたのですが、約1年半の間に彼女は亡くなっており落胆しつつも、彼女の鍵のかからない扉から入り彼女のお気に入りだったあるものを撫でて、そうして立ち去りました。満州出光に勤めていた彼女の旦那様と一緒に持ち帰ったという小さな置物です。

私は店の近所にいた黒人男性と顔なじみになりました。どんなにできが悪くても言語能力は別です。そのうちに私は科学雑誌を日本語から英語に、そして科学雑誌をやめて言語を志すことにしました。この黒人男性はJosephといい、弟と一緒にあの一帯の地主さんのマンションを借りて住んでいました。この地主さんに悪気がないのはわかっていましたが、「あの黒人と口を利くのはやめろ」と言われてしまい、面食らったことがありました。実は、彼は日本語をほぼ話さないので漏れることはないだろうと思い自分の悩みを打ち明けていました。彼はいわゆる典型的なカトリック教徒で、私に「ふしぎのメダイ」をひとつわけてくれて言いました。「学校には、ちゃんと行けよ。何とかなるよ。俺も祈るし、神父様だってたくさん祈るんだ。」

私は祈りたかったけれど、祈る言葉を持たないままではいられないだろうと感じていました。今度は、親友を見送らねばならないかもしれない…と思っていたからです。畳む

Nostalgies

道のり(2)

私の住んでいたおうちはひどいあばら家で、本物のぼろ屋でした。しかしおしゃれなおうちとは違い、「気を遣う必要なんかないだろう?みんなで集まってダベろうぜ」といった中学時代を過ごしました。こうなったのにはわけがあります。私ががさつで傍若無人だったのもありますが、お隣にいた地主のお嬢様は私がいつも店に手伝いに行っていて家にいなくても、生まれつきの病気があったがために私を待っていてくれました。私は彼女のことが大事でした。彼女は心臓が悪かったのですが、「じゃあ私の心臓をくり出して使えばいいよ」などと言うと泣いて嫌がったのです。

しかしある日、彼女は私に詰め寄りました。「一緒に死んで」と。

治療も苦しいし、痛いし、何より彼女のお母様とお兄様が闘病を苦にして入水自殺してしまったことも重なっていました。彼女のお兄様もまた、腎臓病で透析を受けていたそうなのです。

中学生のうちに何度か学校をサボって私たちは一緒に座り込んでいました。碌に校則もない学校だったのに、「時間通り登校して授業を受けてください」なんてものすら守れませんでした。

担任教師は彼女のおうちの事情を知っていて、私に「お前、死ぬなよ」と何度も言っていました。おそらく彼女に直接言うのが恐ろしかったのでしょう。

私は全クラスを渡り歩いて、親友に友達を作らせようとしました。うまくいったと思いきや、彼女が30歳で死ぬ直前にはその時の友達を探そうとした形跡がありました。そう、彼女は友達付き合いが億劫だったというより、どうせ死ぬのだからと消極的だっただけなのでした。

私は放課後に店を手伝い、疲れ果てて、店に行く途中の電車内で何度も倒れました。順天堂の眼科に通っていた時、あのニコライ堂の屋根を見て「あそこには神様がいるらしい、いつか行けたら彼女は苦しまずに人生を終えられるのではないか」と思っていました。早くに死ぬとはあらゆる人に言われていたのです。私はあのとき、あの屋根を見つけられなかったら彼女の「お誘い」を受けていたと思います。

残念ながら、客商売の娘としてはどこかの宗教団体に所属することすら仕事の妨げになるということでこの時に入信することはできませんでしたが、そこに存在するだけでよかったのです。「あそこには神様がいる」と思える特別な場所、神社だとかお寺だとかはうちの店から子どもの足で歩いて20分ちょっとかかり、私の歩く日常の中にはありませんでした。畳む

Nostalgies

道のり(1)

うちの店は一風変わった理容室でした。1945年生まれの父と1947年生まれの母、そして1982年生まれの私がいました。

父は中学を卒業後、地元広島市で住み込みで理容師になり、父親が早くに亡くなったため強権的であった母親との仲が悪化、国家試験を合格後にはそれまでに貯めていたお金をもとにアメリカに渡るか東京に出るかで迷ったようです。

アメリカには本人の大叔母が住んでいたため、まったくの無関係の土地という訳ではなかったためです。GHQの連れてきた黒人男性と懇意になり、人種差別の状況が芳しくないことを理解した彼は東京を選んだのでした。当時の米軍は黒人を貨物輸送機で運び、暴力的な扱いを受けていたので軍役を終えて故郷に帰ることができるというのに泣いて嫌がったのです。「日本では、ただ外国人はただの外国人としてだけ扱う、アメリカよりましだ」と。

母は四国地方から北海道に移り住んだ炭鉱の子として育ちました。一番上の兄は北海道大学を通じてドイツに渡り発電所の研究を、しかしそれは父親をじん肺で失った後のことです。炭鉱会社は父親を失ったこの家庭をそのままそこに住まわせました。この一番上の兄は故郷の母親に宛ててドイツ語で手紙を書き、尋常小学校をかろうじて卒業しただけの彼女は北海道大学で息子に教えた恩師を訪ねて訳して読んでもらったという話が残っています。そんな状況だったため、一番末の妹としての母の健康状態や栄養状態は悪く労災病院で歯を診てもらうまではかなりひどいすきっ歯だったそうです。二番目の兄は炭鉱会社から与えられた土地で農業を営んで自分たちと街の食糧事情に貢献しました。そう、炭鉱は炭鉱だけでは成り立ちません。そのうちに母は中学を卒業後札幌市の理容学校に通い始め、住み込みで働き始めました。彼女はここから、東京都内に居を構えるまでの間何があったのかは一切語りません。私の知ることのない空白です。

父は日暮里、母は水道橋などで働き、そのうち母方の祖母は父との結婚をするよう勧めたようです。しかしこの時、母の姉たちは「原爆の影響があるのではないか」などと言って妨害したようで、父はこの姉たちを一切自宅に呼ばせないようにしていました。決定的だったのはずいぶんのちにそれを小学校高学年になった娘である私に言ったことでした。私は意に介さず「何年かしたらわかるんじゃないですか、でも、みんな広島の牡蠣がおいしいって言って食べていますよ」と流していました。

私の影もなかった1970年代の頃、ある観光会社の社長が「お前が気に入ったから、うちの会社の福利厚生枠で働かないか」と父にお誘いをかけ、父はそれについていきました。中卒で、なんの持ち物や財産もなく、保障もないのであれば会社に入った方が安全です。ところが、80年代に入ると彼は自民党からお声がかかったため政界に入る(選挙活動をするためには社長をやめなくてはならないから)と言い出し、退職金をはずんで「これでお前の店を持ってくれ」と伝えました。

私が生まれる前、彼は関東地方の選挙区内で当選。そして、父は店を構えたものの非常に不安定で一週間店に出てはなかなか決まったお客もつかず母と揉めたようでした。(おそらく馬橋駅近くのある)アパートに私を連れて母と別居しようとしたようです。父はノイローゼになっていたのかもしれません。あの人にたくさんお金を出してもらっても、どんなにカネがあっても自分の力でお客がつかなければ自営業者の我々には何にもなりません。

私の記憶には、非常に立派なおうちにふらっと連れていかれた思い出があります。あれはたぶん彼のお宅だったのだろうと思います。奥様はとても優しかったのを覚えています。数日そのように過ごした後、父は私を連れて母のもとに帰りました。畳む

Nostalgies

Twely

notestockが使えない様子。どうしたのかな?連携ができないので諦めました。
この鯖はちょっと反応が遅いんですよね…

#fediverse

Diary

キラキラのアクセサリーがほしい!

石のついてないクロスのペンダントトップ、チェーン、指輪が欲しくて欲しくてたまりません。オープンハートはあまりにも古いってよく言われるのでやめとくことにしました…というわけでシンプルなクロスです。とはいえお気に入りのダイヤペンダントがあるので、先に指輪が欲しいです。ホワイトゴールドで手を打つつもりでしたが、やっぱりプラチナの鋭い輝きが好きです。金色の優しい輝きも好きですけどね!

しかし約5万円。ううーきつい!だめかなあ。一番安いプラチナの細いリングを買うくらいなら、ホワイトゴールドの少しでも存在感のあるリングを選びます。それでもやっぱり、先に暗い色のリップかな…アクセサリーはあの指輪を買うまで買いません。頑張ります。

Diary

もしかして

ノート・トゥートのボタンてがろぐにつけても無駄?タイトルないもんね、そのうち消します。

消したよ!

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雪かき

少しだけやってきました。道路が真っ白であまりにも見かねて…。途中で大きな立派なスコップを持って出てきた男性は、その…敷地内玄関の周りだけやって、そのまま帰っていきました。

何しに来たの?そのスコップ置いてってくれないかな、宝の持ち腐れっていうんだよそれ。

…と言いたかったです。元気なカラダと道具と時間持ってて何もしないのは、どれもない人と変わりません。

Diary

…とは言ってもね。

どうやらこのドメイン、すっごくお得なお買い物だったようなんです。無料ドメインで、容量少ないプランで3年契約、1万円いかないという…とりあえず…続けることにします。めっちゃくちゃ高いじゃないですか!1ヶ月に1430円とかたぶん今の私には無理。

Diary

もしかしたら、やっぱり自サイトやめるかもしれません。ちょっと、やるべきことが見つかったので。できることを、できるうちにやらないといけませんよね!

そう、私が私のためだけに動くのは当たり前のことなんです。いいでしょ?

Diary

Misskey”Suzuri”鯖

昨日ふと話題になっていたmisskey.suzuri.jp。

suzuriに電話かけるって言ったって電話番号がちらと見た限りでは出てこなかったのでGMOに電話かけて、管理者が見ていない状態のMisskey鯖が放置されてて、新規登録オープン状態だからといっておふざけで登録している人が増えているみたいですとお知らせしました。さすがに看過するわけにはいかなかったので…。

いつぞやあった、「カフェスタ事件」が頭をよぎったんですよ。管理者がいてさえトラブルがあるというのに、不在のままでまともに機能するわけがありません。法律、規約、そして人の目があってなんとか成り立っているSNSでそういうことがあると、気に入ってても社会的に消滅させられることがあの事件で見えた、というのが私の経験です。私もカフェスタ使ってたのでね、消えてしまって残念でした。味のあるアバター、一通り必要なものがそろっている手軽さ…。しかも、企業鯖もちょいちょい増えてきたというこの矢先にトラブルがあったらきっと手を出そうとしている企業さんもFediverseやめとこ、ってなっちゃうのは目に見えています。開発元と運営さんが別というものではありながらも、やはり印象というものがありますからね。

なにごともないうちに閉鎖しててくれてよかった…。

#fediverse

Diary

2024年1月 この範囲を時系列順で読む この範囲をファイルに出力する

TegUp導入

バージョンが1になるまでは導入しないつもりでしたが、忙しくなるので今のうちに導入しました。ついでにバックアップを取って、投稿を消しました。ずいぶん書いたような気がします。テキストだけならもっとたくさん書けるでしょうね!

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